基本的に備忘録

あれこれ

雑記

2020年4月の緊急事態宣言以降、自分と違う考え方についてちょくちょく考えています。

緊急事態宣言以降、家にいる時間が増えました。ネットを見る時間も増えました。
そんなわけで、TwitterやらWebのニュースやら良く見ていたんですけど、コロナ禍前よりも不満や批判的な書き込みが目に入るようになりました。

その中に、一方的なものとか話が噛み合ってないのではと思わせるものもあって、特にそういったのを見るとなんだかなぁと思いました。

噛み合ってなさそうなやりとりなんかを見ていると、一見分からないことの中にももう少し分かることもあるのではないかと思いました。
そういうのをたくさん目にして一時期インターネットに対してあまりいいイメージを持てなかった時期もありましたが、考え方の衝突を一歩引いた目線で見れたことで、じゃあ自分はどうだったかと省みるきっかけにもなりました。

こういうのって受け手に依るところが大きいなぁと思います。同じ内容でも肯定的にも否定的にも受け取れます。なんなら受け取らないこともできます。

じゃあ受け手としての自分はどうだったか。
もしかしたら共感できるところがあったかもしれない、行き着いた所は違うかもしれないけれどその過程は理解できたかもしれない、そんなことを思って、とりあえずまずは相手の話を聞くことを意識し、ネットを見るときもどうしてそう思うのか考えるようにしてみました。

実際にやってみると、自分の考えを見直せたり、他の人達が衝突しそうなところを第参者として誤解をさけることができたりと良かったことがありました。
また、考えとして行き着いたところは違ってもその過程は理解できたりして、自分とは違う考えを自分の中で処理しやすくなりました。
対比によって自分自身の気持ちや考えが相対化されるというか、自分はこういったものを大事にしているからこういう考えになったんだと自分のことを深く知るきっかけにもなりました。
なんとなく感じているのは、考え方の違いというのは先天的なものもさることながら人間は幼少期から現在までの環境や立場による違いによる所も大きそうだと思っています。
インターネット、特にTwitterで意見の衝突が起きやすいのは、現在置かれている環境の違う人がTwitterというなんの仕切りのない1つの場所に集まっているからだと思いました。

 

逆に良くなかったこともあって、話を聞くことに執着して話がこじれてしまって、取り返しのつかないことになってしまったこともありました。
自分から話を聞いておきながら、こじらせて匙を投げてしまいました。
相手の方は元々話の合う方で2つの意味で信頼してました。1つ目は色々な話をしていた中で自分の思ったことを正直に話してもいいかなと思っていたことで、2つ目は自分よりも考え方がしっかりしているということでした。
話の中で、ここはこうじゃないかと思う所があり、そこについて質問をしていたつもりが、話が進む中で感情的になっていったこともあって、質問をしているのか質問の体で自分の意見をぶつけているのか分からないような感じになってしまいました。
そもそも楽しい話ではなかったので、それをこじらせて長々と続けてしまったのは良くなかったです。
異なる考え方の人の話を聞くという行為は良いこともありますがそれなりに疲れます。根気強さもある程度必要になるかもしれません。そして先の件は自分が話を聞くことばかりに考えがいって、話を聞くことには相手にも大きな負担に与えることが見えてませんでした。

無理に聞き出そうとするのも良くなかったかもしれません。
異なる考え方を知るということはデリケートな所があってその塩梅は難しく、結局のところケースバイケースなのかなと思います。
なんとなく考えはまとまっているものの文章にするとなんかあんまりうまくまとまらなかったなぁ。。聞くのも話すのも大事ですね。